2ntブログ
心愛のひとりごと~。ジャンルと全く関係ないこと書いてます。
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会社の宴会で、
「慈悲の気持ちで接すればいいんだよ」
って言われました。

ま、言った相手は酔っぱらいなので
あんまり深く考えなくていいんですがw
とりあえず少し考えてみました。

慈悲とは…

楽をあたえることを「慈」といい、苦を抜くことを「悲」というといわれる。これを抜苦与楽(ばっくよらく)という。

サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra、मित्र)から造られた抽象名詞で、本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。

次に、サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。

愛が更に進化した場合を、慈悲と呼んで区別する場合もある。この場合は愛が状態であり、対象や相手を持たないが、更に愛があふれ出ている。近くに来る人は慈悲を受け取り、愛をいっぱいに受け取る事が出来るとも言われる。
観音菩薩や聖母マリアは、このような状態の象徴であり、そのような状態を感じる事が出来るように表現されている。

wikipediaで調べてみたところこんな感じでした。

最初の部分は何となくわかる。
でも「愛が進化した」っていうのは、心愛には重すぎる。
だって誰にでも思える気持ちじゃないよね?
観音菩薩や聖母マリアレベルwにならないと無理よ。

っていうのは、
ある対象の人物がいて、その人に対する態度をどうしたらいいか?
って話から「慈悲」って言葉が出てきたから、
その人物には「愛が進化した」なんて思えない!ってこと。

ま、愛っていうのもいろんな意味があるからね。
ここでも「対象や相手を持たない」って書いてあるし。

とにかく、心愛が心に余裕がないと駄目なんだな、っていうのはわかりました。
でも、その人物に対して心を広く持つことができるかどうかは不明。
持つように努力しようとも、今は思わない。

会社の中の人間関係って難しいね。